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戦争を語り継ぐ。祖父の語った戦争。

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終戦の日

2016年8月15日。
第71回目となる終戦の日を迎えました。
正午には1分間の黙祷を捧げさせて頂き、戦没者の霊に、そして数年前に亡くなった祖父の霊に祈りを捧げさせて頂きました。

戦後生まれの私はもちろん戦争を経験していません。

しかし祖父が戦地に赴き、戦争を経験しました。
祖父は戦争での経験を私に少しずつ話してくれました。
私の成長に合わせ、受け止められる年齢に応じて1つ、また1つと機会を見て話して聞かせてくれました。

祖父が他界した現在、祖父が経験した戦争の話をしてくれる人はいなくなりました。

「戦争は地獄じゃった。戦争だけは繰り返しちゃいかん。」

戦争の話をしてくれた後に必ず祖父が言っていた言葉です。
祖父が私に語って聞かせてくれた話を、私も誰かに語り継ぐ必要があるのだと思います。
戦争という地獄を繰り返さないために。

昨年も終戦の日に、祖父の語ってくれた戦争の話を書かせて頂きました。
今年も昨年書いていない祖父の話してくれた戦争の話を書かせて頂きたいと思います。

戦地での食事

祖父が配属されたのは日本陸軍でした。
第二次世界大戦(太平洋戦争)当時、日本は東南アジアの島々を占領し、国土をドンドン広げていっていました。
現在の世界地図からは考えられないような広い国土を得て、進軍していました。

祖父はその前線に送られ、戦地にいました。

戦地での食事について話してくれた事がありました。

最初の頃は食事も豊富にあり、補給がきちんと届いていたそうですが、戦況が悪化してからは食料を節約する必要があり、ひどい食事になっていったそうです。

戦地では地面に真っ直ぐ下に穴を掘り、自分1人が丁度入れるサイズの縦穴に身を隠し敵を待ったりしたそうです。
東南アジアの熱帯地方のジャングルの中では、スコールが降ったりするので、その穴の中も水が貯まってビショビショになります。
昼間は火を燃やして米を炊いたりすると、その煙が敵兵に見つかってしまうため、食事は夜にとったそうです。

1日縦穴の中で過ごすと、シラミや虫がフンドシの中に入ってきていて沢山いたそうです。
ご飯を炊くときには、そのフンドシに付いたシラミや虫も飯盒(米を炊く鉄の入れ物)に入れて、少ない米で食料が不足する分を補って、食事として食べていたそうです。


また物資が豊富だった頃には、土民(元々その島々にすんでいた人々)と物々交換をして食料を得たりしていたそうですが、戦況が悪化していくと物々交換する物資もなくなり、現地の村を襲って食料を調達していたそうです。

祖父が生きて帰ってくる事が出来た理由の1つに、この襲撃部隊(?)にいて、村を襲ってすぐの食料を食べる事が出来たからだと話してくれた事がありました。
たとえ現地の村の食料を得たとしても、その食料でまかなえる以上の兵隊達がいて、全員にまでは食料が行き渡らなかった事が伺えます。

そうした村を襲った話の時も、英雄嘆を語るような感じではなく、やむをえず行ったと、生きていくために仕方なくだったと言う感じで話していました。

終戦間際

祖父が終戦間際にいた地はミャンマー、当時はビルマと呼ばれていた国の土地です。

終戦間際の頃には戦況は最悪で、とにかく逃げるしかなくジャングルの奥へ奥へと敗走していたそうです。
もう現地の人も住んでいないような山深いジャングルだったそうです。

昼間は敵の飛行機が空を飛んでいて見つかる危険性が高いので、じっと身を隠して過ごし、夜になってから移動して逃げていたそうです。
この頃には、もう同じ部隊の人も何人も戦死しており、分隊長(ぶんたいちょう)もいたりいなかったり。
または分隊長がいたにしても、もう指揮系統はとっくに崩壊していて

「とにかく逃げろ」

という事で皆で逃げていたそうです。

またジャングルでの敗走は非常に困難を極め、大きな山を越えて行くので1週間かかっても数kmも進んでいなかった事もあったそうです。
そんな過酷な状況だったため、分隊長であってももう精神的に参ってしまっていて、そんな中で引っ張っていっていたのは、芯が強いヤクザ者だったそうです。
ヤクザ者は逆境でも強く、実質の分隊長になって敗走兵を率いていたりもしたそうです。

祖父の終戦

祖父が終戦を迎えたのは、終戦の日の8月15日ではありません。

ジャングルの奥地で敗走して、敵軍から逃げて逃げていたため、もうまともな指揮系統がなかったからです。
終戦の知らせなど前線に届くワケもなく、逃げて逃げていました。

しかし

「どうも様子がおかしい?」

という事になったのが、それまでは敵のイギリス軍が昼間は日本兵を追い立てるために、銃で撃ちまくってきていたのが、ある日を境にほぼやんで撃ってこなくなったそうです。

どうやって日本の終戦、敗戦の知らせを聞いたのかは分かりませんが、日本が戦争に負けて戦争が終わったのだと分かってから、敵軍であるイギリス軍の捕虜になったそうです。

終戦後捕虜になって

イギリス軍の捕虜になって最初にやらされた事は、地面にショベルで穴を掘らされたそうです。
1人1個の穴です。

「自分達を埋める墓の穴を掘らされているんじゃないか?」

と思いながら掘ったところ、それはイギリス兵が言うには

「日本人は放っておいたらどこでもクソを垂れるから」

という事で、各人の便所の穴だったそうです。

捕虜になって集められた日本兵は柵の中に入れられたそうです。
柵越しに見るイギリス兵は、音楽を聴き、食事も潤沢にあり、ケーキすらも戦地にあったそうです。

「こりゃあ日本が負けるわけじゃ」

と思ったそうです。
補給などとうに潰えて、まっとうな食事もない中の日本軍。
片や補給もしっかりしていて、食事ばかりかデザートまであるイギリス軍。
戦う前から結果が見えていた様な状況に終戦時にはなっていた、と。

戦友との別れ

祖父が語ってくれた戦争の内、一部分を書かせていただきました。
今回書かせていただいた内容だけだと、戦争の悲惨さが伝わらないかもしれませんが、祖父の戦友の話を書かせていただいて筆をおきたいと思います。

多くの戦友が戦地で命を落としたそうです。
敗走する中で、仲間を逃がすために敵に特攻していった仲間。
病気や怪我を負い、連れて逃げる事ができなくて置き去りにした仲間。
多くの命が失われたそうです。

「わしは幸せになっちゃあいかんのじゃ」

祖父の口癖でした。
戦地で散った多くの命を思うと、自分が幸せに過ごすことなどあってはいけない、と。
死んでいった戦友に顔向けが出来ない、と。


戦争は71年前に終わりましたが、祖父の中での戦争の記憶と葛藤は戦後もずっとあったのだろうと思います。
祖父自身が亡くなるまで。


今、戦争をしていない日本に生きる私が平和のために出来る事は、祖父の話してくれた戦争を語り継ぐことではないか、そう思い書かせていただきました。
戦争のない平和を祈りつつ。