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戦争を語り継ぐ。祖父の語ってくれた戦地での話。

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終戦の日

2015/08/15(土)。
戦後70年となる日を迎えました。

私はもちろん戦後生まれです。
戦争は経験していません。

私の父は戦争を経験していますが、まだ幼く地方の農家であったため家の裏に掘った防空壕に、敵の飛行機が飛んできた時に隠れたと言っていました。
そして幼さ故、飛行機が見たくて防空壕からちょっと出て田んぼのすぐ上を低空で飛んでいく飛行機を1度だけ見た事があると言っていました。

私には祖父がいます。
7年前に他界しましたが、私が中学生の頃に「娘のそばに」と私の母をつたって近所に引っ越してきてくれました。
私はじいちゃん子だったので祖父と祖母が引っ越してきてくれたのが嬉しくてよく遊びに行ってました。

何度も遊びに行ったりお風呂に入りに行ったりする中で、祖父がポツリポツリと戦争について話してくれました。
中学生や高校生の頃は、まだ子供に聞かせるために血生臭い話は控えめだったと思いますが、大学生になり聞かせてもらった話はかなり克明に戦時下のしかも戦地での話を聞かせてくれました。

誰かに語り継ぐ必要がある

そう祖父は思っていたのだと思います。
祖父の孫である私が、祖父の経験した戦争を誰かに語り継ぐ。
それが戦後70年の節目に生きている私の役目だろう、そう思い書かせて頂きます。

日本陸軍

祖父が配属されたのは日本陸軍でした。
戦時中だと赤紙が来て徴兵されますが、祖父は多分太平洋戦争が始まる前から徴兵され陸軍に所属していたようでした。
戦争が始まってすぐは日本が有利に戦いを進めていました。
東南アジアの島々を占拠(占領?)し、日本の国土はドンドン広がっていました。
そして祖父もその前線にいました。

日本の近くから南へ南へと、多くの島を攻めて行く中で何という島か分かりませんが祖父が上陸した島での話をしてくれました。

”太平洋の南の島はとにかくジャングルだらけで暑かった。
土民(その島々に元々住んでいる人)は言葉は通じないが、ノンビリとした穏やかな人達が多かった。
場所によっては占領して次の島に向かわなければいけなかったが、土民の女性に請われて、その女性とそこの暮らしが気に入ってしまって島に残る者もいた。

どこかの島で土民に捕らわれた少年兵を助けた事もある。
空軍で飛行機で先遣隊として飛んだが途中で不時着する事になり、土民に捕まり木で出来た檻に捕まっていた。
食料と交換にその少年兵を助け、少年兵から話を聞いた。
まだ10代のその少年兵は『生き残るために1日1回与えられるオニギリを全部は食べずに、檻の木に1つぶずつ付けて乾燥させ、逃げる時の食料を確保していました』と。
少年兵を無事、空軍へと帰したがその後については知らない。

島から島へと移る時には船を使って渡った。
船は人の乗るスペースは狭かった。”

と、この辺の話がまだ私が中学生の頃に聞かせてくれた話だろうか。

人の命の価値

祖父はよくニュースを見ては驚いていました。

人間の命の価値がこんなにも違うもんか

と。
ニュースでは事故で亡くなった人や殺人事件で亡くなった人の命を「大切な命が失われた」と報道します。

一体いつからこんなにも人の命に価値が出たんじゃ

と。
戦後世代の私には「人の命は地球よりも重い」と習ってきているため不思議でしたが、祖父の戦時中の話を聞いて祖父の言っている事が納得できました。

戦争中は人の命に価値なんてないんじゃ。連れている馬の命の方が価値は上じゃった。

馬は重い荷物を運んでくれるから戦地では貴重で、怪我をした傷病兵なんかよりもよほど大事にされた、と。
傷病兵は場合によっては置き去りにされたり、仲間を救うためにその命を捧げた、と。

「あれはジャングルで敵に追われて逃げる時じゃった。もう目の前の20m先には敵が来て銃をこちらに向けているのが分かった。下手に動けば撃たれるしどうしようもない状況じゃった。
『俺が囮(おとり)になる、敵に突っ込むからその間に皆は逃げろ』
そう言って敵に銃を撃ちながら特攻した戦友がおった。
そのお陰で皆は逃げる事が出来た」

と。
戦局が悪化してきてからは逃げる事が大切だった。
怪我をして衰弱した傷病兵を抱えながら逃げるのは大変。
もう衰弱しきって手も腐りかけてきていた兵がいて、そのままでは腐るのが進行するからと、日本刀で腕を根本からスパンと切った、と。
それまで生きているのか死んでいるのか分からないような状態だったのが、飛び起きて走り回った、と。
そうやって体が腐るのを防いだ、と。

悪運

わしは幸せになっちゃあいかんのじゃ

祖父はよくそう言って、誕生日のお祝いや米寿の祝いなどは断っていた。

「死んでいった戦友達に顔向けができん」

そう言っていました。
特にケーキは嫌いで家族皆でお祝いで食べている時も

「ケーキはわしはいらん。」

と頑なにケーキは拒みました。
それは終戦後にイギリス兵の捕虜になり、柵の向こうから見ていたらイギリス兵達が祖父にケーキを投げつけてきたそうです。
そんな敗戦兵の心情を踏みにじったケーキは忌み嫌う対象となったそうです。

「よいか。戦争では運が良いもんが生き残るんじゃない。運がよいだけならとっとと死んどる。悪運が強いもんだけが生き残るんじゃ。」

と話してくれました。
そして耳にある傷を見せてくれました。
耳たぶの一部が切った様な傷がありました。

「この傷は銃撃の最中を逃げる途中に銃弾が頭をかすめて耳たぶを切ったんじゃ。あと3cmずれていたら頭をやられてくたばっとった。
また別の逃げる時に、途中ですごく走りにくくなった。でも無我夢中じゃからそのまま逃げてきた。逃げ切って足を見たら走りにくくなった原因が分かった。靴の踵(かかと)が敵の銃弾で弾け飛んでいてなくなっていたんじゃ。これも後5cmずれて足を怪我していたら、逃げきれずに死んでおった。
もう運とかじゃない悪運じゃ。」

と、呪うように言っていました。
私は単純に生き残れて良かったんじゃないかと思って聞いていましたが、祖父はどうもそうではないようでした。

戦地ではとにかく仲間が戦友がたくさん死んだ、と。
本当、あの戦地の中で地獄の中で生き残ったんは運が良いんじゃない、悪運が強かったんじゃ、と。
仲間がドンドン死んでいく中で生き残ってしまった事に、罪悪感を感じている様でした。
だからこそ

わしは幸せになっちゃあいかんのじゃ

そう言っていたのだと思います。

戦争は地獄

「戦争は地獄じゃった。戦争だけは繰り返しちゃいかん。」

それが祖父の口癖でした。
大学生になり夏休みや冬休みで帰省した時に、祖父が話してくれる戦争経験談は貴重な話として私は聞かせてもらっていました。
戦争で何が起き、戦地では何がおこっていたのか。
どんな戦いがあったのか。

話好きの祖父でしたが、戦争の話をする時は低めの声で遠い過去に思いを馳せながら話していたのが印象的でした。

今、戦争をしていない日本に生きる私が平和のために出来る事は、祖父の話してくれた戦争を語り継ぐ事ではないか、そう思い書かせて頂きました。
戦争のない平和を祈りつつ。